ミス・シェパードをお手本に(The Lady in the Van)
ミス・シェパード(マギー・スミス)は、ロンドン北部カムデン・タウンの通りに黄色い車を停め、自由気ままな車上生活を送っていた。劇作家ベネット(アレックス・ジェニングス)は、路上駐車を注意される彼女の姿を目にしたことから自宅の駐車場に車を停めることを勧める。一時的に駐車させるつもりの彼だったが、シェパードは15年も居座り続ける。彼女の高圧的で予想のつかない言動に翻弄(ほんろう)されながらも不思議な絆を育む中、ベネットはフランス語が話せて音楽にも詳しい彼女に興味を覚えるが……。
カムデン・タウンの通りの各所に定期的に自分の黄色い車を停め、そこで生活するミス・シェパード。(定期的に移動することで「路上に住んではない」)
子供達からの「施し」としてのクリスマスプレゼントを受け取るけど、悪態をついて絶対にありがとうと言わないミス・シェパード。
カムデン・タウン通りの住人の、偽善者的な優しさが・・・。静かに死を待つ冷たさもあり、死なない程度の施しをする優しさもあり。
これからオペラを見に行く夫妻(左)の家の前に車を駐車するミス・シェパード。しばらく厄介になる予定。
困り顔の夫妻。
夫妻としては本当は自分の家の前にこんな浮浪者に留まってほしくないけど、でも「貧者」に冷たくするのは「人」としてどうかという罪悪感もあり。
見てる側とすれば、そもそもその罪悪感も自らが相手に対して優位的な立場だからこそ発生するのでは?つまりは偽善じゃないの?とも思ったり。でもこの場合、何が正しいのかはわからない・・・
緩い優しさの中に自分が欲する居場所を見つけたこの通りから、彼女は動く気はありません。
それでも、とうとう駐車禁止(退去)のビラを突き付けられ、ベネットの庭先に車を「一時」置いておくことにします。
ベネット的には3ヶ月程度かな?と思いきや、これが15年間も。
15年は長いです。(私なら嫌だよ。)
その間、ベネットはミス・シェパードの過去を直接本人に詮索するようなことはしませんでした。ほんの偶然、彼女の本名が別にあること、フランス語に堪能なこと、ピアノを流暢に弾けることを知ることになりますが、それから先は聞きません。
ちょうど自らの母親との距離もミス・シェパードとリンクします。
本人の偏屈さ加減、臭いや汚物の処理なんかでかなりな負担を背負うことになったベネット。(なにせミス・シェパードは偏屈で誇り高き浮浪者)
汚物や臭いに関する描写はかなり抑えられています。が、トイレを借りていないことからも、物凄いことになっていたはず。(ベネット曰くトイレの使用は「緊急事態」のみの対応)
ある時、一時的な検診を受けさせたらどうかとの地域のワーカーの勧めもあり、勧めてみると意外にもあっさりと了承。
普段なら絶対に施設(精神病棟だろうと福祉施設だろうとどんな施設でも)に一歩でも足を踏み入れることを拒絶しただろうけど、何故かこの時は行ったんですよね。
この時は本当に哀れなバンの住居者だった(つまり浮浪者)。
このシーンの次、ベネットが部屋の窓から彼女を見る映像での彼女は、とても気品があって。(良い画像が見つからなかった)
そのシーンをみて、この役はマギー・スミスしかできなかっただろうな、と思いました。さすが往年の女優。
この時、施設で久しぶり(たぶん数十年ぶり?)のお風呂にも入って身綺麗になり、髪も梳ってもらい、まともな食事を食べることができ、魂が欲するピアノに触れることができ、そして彼女はその施設を抜け出し、自分の住処(バン)に戻るのです。
戻った理由を彼女なりに説明していましたが、本心は別のところにあるのでしょう。
そして彼女は亡くなりました。
ベネットが彼女について知るのは彼女の死後。
彼女がベネットの庭先にいるときは、たまに好奇心丸出しの婦人などからの情報提供はありましたが、直接聞くことはほとんどなかったから。見守るだけで謙虚なんだか冷たいんだかわからない距離感が、様々な思いがあるミス・シェパードにはちょうど良かったのかもしれません。
個人的には、ミス・シェパードが亡くなってからのくだりは、あんまり要らなかったな。
それと、ワーカーさんの関わりの密さと介護施設の職員さんの「人」への対応が日本と比べてレベル高いな、と思いました。これがイギリスの福祉のレベルなんでしょうね。(高い)
不思議なのはこの邦題。なぜお手本・・?お手本、ちょっと違う気がする。
予告編の動画も不可解。絶対にあんな「ステキ」編集は生理的に受け付けないわ。事前に観なくてよかったな。
機会があったら是非見てほしいなぁ。