日々のつれづれ

大切なこともそうじゃないことも、ゴッチャマゼ

読み聞かせは

先日、下の子が自分の本を売りたいというので、book offに行ってきました。

私は特に用事はないのですが、保護者として名前を貸さないといけないので一緒にカウンターに行き、ついでに本棚をチラチラと見ていて、こちらを買いました。 

嘘つきアーニャの真っ赤な真実。米原万里さんの著書です。

こちらでも書いているとおり、米原さんの著書は大好きで、米原さんが好きなものはとりあえず読んでみたい感じです。 

toukofujinomiya.hatenablog.com

 

ま、そんなわけで、寝る前に読んでいましたら、下の子が自分の気持ちを落ち着かせるためにお布団に潜り込んできました。

※下の子は高校生になっても気持ちがお子ちゃまで、たまに自分の気持ちを落ち着かせるためにくっついてきます。いつまでくっついてくれるのかなぁ。

 

ちょうど、「白い都のヤスミンカ」の章を読んでいましたので、読んでいるところを音読しました。

ソビエトで様々な国の子たちと学んだ米原さんの文章を、ほんの触りでもいいから感じてほしかったんだもの。

 「ところで、この都市の現在の名称『ベオグラード』は、スラブ民族の一脈であるセルボ・クロアート人の言葉で『白い都』という意味になりますが、名付け親は実はトルコ人なんです。」

 そこまで一気に話すと、ヤスミンカは私たちの反応を確かめるかのように教室全体を見渡した。惚れ惚れするほど落ち着き払っている。声は決して大きくないのに、ひとつひとつの言葉がしっかりとこちらの意識に届く。

 アンナ・パヴロヴナ先生も窓際に寄りかかって生徒たちとともにヤスミンカの話に聞き入っている。大学の歴史学部を卒業後、長いあいだ黒海沿岸でスキタイ遺跡の発掘をしてきたアンナ・パヴロヴナ先生は、ソビエト学校の教師たちの中でも屈指の話し上手だった。

たったこれだけの文章の中でも、下の子が知らない単語、言い回し、歴史、常識が詰まっているはずです。

数ページ読んでから(私の口も疲れてきましたので(笑))、「はい、ここまで」と唐突に読み終わりました。

 

すると、下の子は「なんかすごい懐かしい感じ。すごい好き。」と言いました。

懐かしいのは私が下の子が(上の子もですけど)小さいころに読み聞かせをしていたからでしょう。

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 「あぁ、そうかもしれない。なんか、お母さんの声のトーンが知ってる感じで懐かしくて。」 そして下の子は「さて。勉強するかなー」と自室に戻りました。

 

私はというと、その言葉の意味をちょっと考えました。

私が今読み聞かせたのは、下の子の経験や知識として欠けているかもしれない部分を補うことができるかもしれないという下の子の知的な向上のためでしたが、下の子が私の読み聞かせから受け取ったのは、向上という部分もあったのかもしれないけど、私の読む声のトーンやリズムで自身のバックグラウンドを思い出して精神的な落ち着きを図る効果の方が大きかったかもしれません。

 

なぜ親は子に読み聞かせをするんでしょうか。子はなぜ親に読み聞かせをねだるんでしょうか。

自身が文字を読むよりも、音声として聞く方が理解が容易だから?

様々な物語を読み聞かせることによって、様々な物語の内容を識る機会をもうけることができるから?

様々な物語を読み聞かせることによって、言語や語彙の習得が容易になるから?

 

どれも正しいのかもしれません。

ただ、もしかして子の立場からすると、親が自分のために時間を割いて、傍にいて、自分だけのための物語を読んでくれるから、好きなのかもしれません。

 

もちろん、読み聞かせの際の内容は関係がない時がありますし、こだわりが強い子もいます。お気に入りの話とか、ありますよね。

だから、すべての場合に当てはまらないのは当然なんですけど。

 

下の子が言った言葉がなんか印象的で、私が子供たちが小さいころに読み聞かせていたことは無駄ではなかったのかもれしないと思えて、忙しい中寸暇を惜しんで読んでいた苦労が報われた気がして、なんだかくすぐったくなりました。

 

そして、私が「下の子の知識の不足の補填のために」と良かれと思って読んだことが、もしかすると余計なお世話だったかなぁと思えて。

彼女は自身の経験から自身の力で素直に学ぶことができる子ですので、私が今おこがましく知識を垂れなくても、彼女はそのうち自然に学ぶかもしれません。

 

そんなことをしなくても、私は彼女のそばにいるだけでいいのかもしれないなぁと。

なんだか混乱していますが、そんなことをツラツラと考えました。