久しぶりにまた観ました。『ベン・ハー』(Ben-Hur)(1959年)
最初に観た時に、感想についての下書きをしていたんですが、なんでしょうね、なかなか続きが書けなくて。
何が好き、ココ、って明確じゃない好きなものについて書くのって、難しくないですか?
重厚感あるジュダ=ベン・ハー(チャールトン・ヘストン)が素敵過ぎる。
昔は親友と呼んだメッサラの変心のためにベン・ハーは苦難を強いられる。不思議な運命の導き手(イエス・キリスト)にそれと気づかないまま加護され、復讐心と信仰をもって苦役を乗り越えてメッサラの前に立つ。
元親友のメッサラ(スティーブン・ボイド)の嫌な男役が物凄い良い(笑)
本当に嫌な奴。
メッサラは当時のローマの社会でのし上がるためにこの道を選び、親友だと思っていたのに自分と同じ道を歩いてくれないベン・ハーに嫉妬しているところがあったのかなぁと、ちょっと思った。
淀川長治さんの解説でも、戦車のシーンのカメラワークについて言及しています。
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ハラハラしながら見守りました。
メッサラの姑息な手口(戦車の車輪に武器)が嫌。
でも競技的にはルール無用なので、車輪の武器は禁止じゃないから構わないんだろうけど、紳士的ではないよね。
ローマ時代の命がけの競技に、紳士的とか公明正大さとか清廉潔白さを求めるこっち(観客側)の方が時代錯誤なのかもしれないけど、そこは映画だし。だからこそ、メッサラの嫌な奴ぶりが際立つんですよね。
そしてベン・ハーは勝利を手にしユダヤの誇りを守った英雄となり、結果として復讐を遂げることになるが、瀕死のメッサラから母と妹は業病の者たちが住む死の谷にいることを告げられる。それはメッサラからベン・ハーへのさらなる復讐であった。
親友を変えてしまったローマ、自らと家族、そして友たちを苦しめ続けるローマに対しての憎しみしかないベン・ハーはローマの市民権を放棄する。
エスター(ベン・ハーの元家令の娘さん。相思相愛。)は愛するベン・ハーの苦悩を取り除こうと、その頃には救世主と言われるようになったイエスの話をするが、彼は一向に聞く耳を持たない。
日々苦悩するベン・ハー。しかし、イエスが磔の刑に処されることを知り、万が一の奇跡を求めて、死の谷から母と妹を連れ出し、イエスが十字架を背負って歩く街道に連れ出した。
十字架を背負い、おぼつかない足取りで、時折倒れこんでしまうイエスの顔を見た時、昔、罪人となった自分に水を恵んでくれたその人であることを知った。
イエスは磔の刑に処せられ、絶命した。その時に雷鳴は轟き、強風が吹き荒れ、豪雨のためにその血は大地に染みていった。
ベン・ハーは今までの自分の苦悩を顧み、恨みを洗い流し、深く深く改心した。改心したとはいえ、悲愴な思いで自宅に帰りつくと、そこには笑顔のエスターが待っていた。あの豪雨の中、ベン・ハーの母と妹には奇跡が起きていたのだ。
業病を患った二人は、直接イエスの説法を聞いたわけでもないのに奇跡が起きるのは、たぶん、自らが死に至る病であってもなお、他者を労わる心が奇跡を呼んだのかもしれません。
ベン・ハーの心の動きは、ローマ時代をベースにしているけど、今と全く一緒。
裏切られ、陥れられて誰かを恨みに思う気持ち。誰かを思いやり、労わり、誠実でありたいと思いながらも、生きるために権力側に立たなくてはいけない。したいことがあるにもかかわらず、それができずに意に沿わないことをしなればいない。誰かを恨み、復讐を誓わないと生きていけない。(幸いにも、私には特に復讐を誓うようなことは起きていませんが)
それでも、愛と信仰心をもって他者を許したときに心の平穏が訪れる、ということになるのかしら。(時代はローマ、そして映画はアメリカなので、当然何かしらの宗教を絡めることになりますよね)
ただ、これを何かしらの宗教に絡めなくても、許し、愛、労わりや慈しみは何物にも代えがたい心の平穏、ひいては平和をもたらすものであることは、ナウシカでもお馴染みですよね。
あれ。脱線した。
ベン・ハー(チャールトン・ヘストン)の誠実な人柄が際立つ(そしてガレー船や戦車のシーンがハラハラもの)素晴らしい映画です。
そりゃね、様々ストーリー的に突っ込みたいところはいくつかあるけど、それは観た人が楽しめば良い部分だよね。
他に、映像的には現在の映像の良さ、昔の良さがそれぞれあるので、そこも楽しむポイントではあるかも。
観たいなーとちょっとでも思ったら、ぜひ観てほしいなぁ(^^)
※DVD版は字幕のみだから、気を付けてね。
実は、ベン・ハーと全く関係がないけど、これ大好き。