日々のつれづれ

大切なこともそうじゃないことも、ゴッチャマゼ

『愛人/ラマン』(L' Amant)絶対にただのエロ、ではなく。

私は、マルグリット・デュラスが好きなので、たまたまスターチャンネルで『愛人/ラマン』(L' Amant)が放映されたので、録画しました。(好きな割にはDVDは持っていなかったのよね)

こっちは書籍の方。
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こっちは映画の方。
ジェーン・マーチはこのジャケットでは顔が整ってる少女だけど、作品中では日本語でいうところの単なる「セクシー」という平たい単語では言い表せない、滲み出るものがあります。

 愛人/ラマン - Wikipedia

1929年のフランス領インドシナが舞台。華僑の中国人青年と貧しいフランス人少女の恋。
主人公の少女は、母と2人の兄と共にベトナムで暮らしていた。母は現地で教師をしていた。しかし、母は現地の役人にだまされ、土地のほとんどが海水に浸かってしまう土地を買わされてしまう。そのため、一家は貧しい暮らしを送っていた。母は長兄ばかりを可愛がり、兄は母からもらった金で阿片を買い、彼女と、少女にとっての2番目の兄に暴力を振るい、2人を苦しめていた。
現地のフランス人女学校に通う彼女はある日、メコン川のボート乗り場で、1人の華僑の青年に話しかけられる。やがて2人は関係を持つようになる。
少女は、彼と関係を持つのは、初めは単なる快楽のため、お金稼ぎのためだと割り切っていた。母親も最初は中国人青年との関係を良くは思わなかったが、娘が中国人青年から金をもらっていることを知り、その金が貧困をしのぎフランスへ帰る資金になることがわかり、2人の関係を許した。
しかしそのうちに、彼女の感情が微妙に変化し始め、2人は離れがたい仲になっていく。

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そんなわけで、録画したものをDVDにダビングするつもりで操作していましたら、下の子のご帰宅です。

『愛人/ラマン』(L' Amant)には、当然セックスシーンもあります(録画したのは修正版だけど)。
私は鑑賞しながら録画しようとしていたので、どうしようかなーと。

一緒に観るということは、下の子と一緒に、ジェーン・マーチとレオン・カーフェイのセックスシーンを何度も観ることになる、ということなんだけど。
でもこの映画は単なるエロではないので、一緒に観ることにました。(だって観たかったし)

 

私は普段から9時就寝。
そんなわけで、何度も観た映画なので私は途中で席を立つのですが、下の子には「これ途中で終わらないで最後まで観てね」とお願いしました。
これ、途中で観終わったら単なるエロ映画になっちゃう可能性も無きにしも非ず。下の子は原作を知ってるわけじゃないしね。

結局下の子は最後まで全部観てくれ、そして、「これすごい良かった!!」と言ってくれました。

残念ながら、「原作持ってるから読んでもいいよ」には特に反応はなく。彼女、活字が苦手だからなぁ・・・。そもそも、デュラスの文体が苦手人も多いし。仕方ないか。

 

彼女が一番好きだと言ってくれたのは、ラスト近くの少女がフランスに旅立つ船の中で、ショパンのワルツとともに少女が中国人の男を想って泣くシーンでした。

(中略)そして彼女は突然、自分があの男を愛していなかったということに確信を持てなくなった、―愛していたのだが彼女には見えなかった愛、水が砂に吸い込まれて消えてしまうように、その愛が物語の中に吸い込まれて消えていたからだ、そしていまようやく、彼女はその愛を見出したのだった、はるばると海を横切るように音楽の投げかけられたこの瞬間に。

『愛人/ラマン』(L' Amant)マルグリット・デュラス 河出文庫

 

映画の中での、少女の家族と中国人との会食の際の中国人に対する屈辱的なあしらいや、その後の行為についても、兄と弟の関係についても(少女を含めてもいい)。そして母親との関係についても。
様々、思うところはあります。

その1つ1つを写真付きで意見を述べてもいいのだけど、それは今の私が感じたことでしかないし、そもそもこの映画は観る年齢によって感想が変わる映画なんだと思うのです。

例えば、今回下の子が観たこの映画は、彼女が10年後に観た時にはまた違った感想を抱くのだと思います。
その時には、彼女は自身の様々な経験を通して、この物語どの部分にどれだけ心を動かされるのでしょうか。

 

 思えばわたしの人生はとても早く、手の打ちようがなくってしまった。十八歳のとき、もう手の打ちようがなかった。(中略)十八歳でわたしは年老いた。だれでもそんなふうなのだろうか、尋ねてみたことは一度もない。(中略)でも繊細な顔立ちの女たちが老けこんでしまったのとはちがう、同じ輪郭を保っている、しかし実質は破壊されている。わたしは破壊された顔をしている。

『愛人/ラマン』(L' Amant)マルグリット・デュラス 河出文庫

原作の冒頭で、自身の顔面についての老い、というか如実な変化について克明に記している。女は、経験のすべてが顔面に現れるのかもしれない。

 

この映画にあるような、中国人男性との性愛を含むすべての経験と、母親、兄二人との関わりが、通常の少女が15歳から18歳までに経験するであろう「密度」以上のものが主人公の少女に襲いかかかり(それは彼女が選んだ道でもあり、選ばざるを得なかった道でもあるのだけど)、その顔面を破壊し尽くしたんだろうと思う。つまり、彼女はいやおうなく大人になってしまった。

大人になる、ということは性愛を知るということではなく、それに付随する哀しみを知る、ことではないでしょうか。(だから年齢的に大人になっても哀しみを知らない大人がたくさんいるのよね)

 

哀しみ・・・北斗の拳(無想転生)か!?
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というのは半分冗談ではないです。少年漫画に哀しみを盛り込むのは大切ですよ。(半分以上ネタになっちゃうけどさ)

 

さて。 

やっぱり原作と映画は少し見せ方が違う。
デュラスがこの映画を気に入らなかったのは、興行という名の世間一般への媚び諂うような姿勢だったのかもしれません。それは仕方がないのだけど。
でも、それは分かりやすさににも繋がったかもしれません。

そのため、この映画では世間一般にはウケるセックスに重点を置いています。原作はそれ以上に親と子、兄弟妹の関係、植民地における白人母子家庭の貧困、現地での白人の人種としての優遇などについても書いています。

映画からどこまでくみ取るかは個人に委ねられますね。

 

私がどうしても抜けないとげのように思うのはラストシーン。
映画では、ジャンヌ・モローのナレーションが印象的です。

戦後何年かたったころ、何度かの結婚、子供たち、何度かの離婚、本も何冊か出したころ、男が妻を連れてパリに来た。男は女に電話した。ぼくだよ。女は声を聞いただけでわかった。男は言った、あなたの声が聞きたかっただけでした。女は言った、あたしよ、こんにちは。男はおどおどしていた、以前のように怯えていた。男の声が突然ふるえた。そして、そのふるえとともに、突然その声は中国訛りを取り戻していた。女が本を書きはじめていたことを男は知っていた、サイゴンで会ったお母様から聞いてね。それからまた、下のお兄様のこと、お気の毒と思いました。それからあとは、男はもう女に何も言うことがなかった。次いで、男はそのことを女に言った。男は女に言った、以前と同じように、自分はまだあなたを愛している、あなたを愛することをやめるなんて、けっして自分にはできないだろう、死ぬまであなたを愛するだろう。

ノーフル=ル=シャトー ――パリ 1984年2月-5月
『愛人/ラマン』(L' Amant)マルグリット・デュラス 河出文庫

 

「それからあとは、男はもう女に何も言うことがなかった。」

 

 

 

 

 
一応、載っけときますが、お安い中古を探してもよいでしょう。